タイ勤務中に過労自殺した27歳の男性。その母が「同じ悲劇を繰り返させない」と立ち上がった。企業とともに健康管理マニュアルの作成を進め、遺族と連携して制度化を目指す。背景には言葉の壁、労働時間の無規制、企業の安全配慮義務の盲点があった。海外勤務の現実とは何か、社会はどう向き合うべきか――。
タイで過労自殺
した息子
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「同じ悲劇を繰り返してはいけない」。
タイで働いていた27歳の日本人男性が過労の末に命を絶った。その知らせを受けた母は、悲しみに沈むよりも「息子の代わりに声を上げる」ことを選んだ。企業とともに、海外勤務者の健康と命を守るための対策マニュアルを作成する姿が、多くの人々の心を動かしている。
“海外勤務”という言葉の裏に潜むリスクを、私たちはどれだけ理解しているだろうか――。
なぜ息子はタイで命を絶ったのか?
いつ・どこで何があったのか?
富山県の上田直美さんのもとに悲報が届いたのは、2021年5月1日の朝だった。
息子・優貴さん(当時27歳)は、大阪市に本社を置く日立造船(現・カナデビア)に勤務しており、タイ東部ラヨーン県でのごみ焼却発電プラント建設のために、2021年1月から長期出張していた。
4月30日、優貴さんは建屋の階段の踊り場から転落して死亡。タイ警察は死因を特定しなかったが、母は「自殺だ」と感じた。
死の背景に何があったのか?
死の手がかりとなったのは、優貴さんが生前に残した日記とパソコンの履歴だった。
「おこられてばかりでとてもつらい」「生きのびることができた」――と綴られた言葉の端々に、精神的な疲弊と孤独がにじんでいた。
調査の結果、死亡直前1か月間の時間外労働は100時間を超えていた可能性が高く、経験のない業務を突然任されるなど過重な業務環境に置かれていたことが明らかとなった。
具体的な勤務内容と心理的負荷
建設現場の同僚らによると、優貴さんは途中から通訳なしの状態で、慣れない技術的調整や現地管理業務を任され、さらに日本からの上司からは連日厳しい叱責を受けていたという。
作業現場は舗装されていない林道の先にあり、生活環境も劣悪だった。言語も文化も異なる地で、誰にも相談できず、一人で心をすり減らしていった。
🟧労災認定に至るまでの動き
優貴さんの死後、母の上田さんは労働問題に詳しい岩城穣弁護士の協力を得て、労災申請に踏み切った。2023年4月、大阪南労働基準監督署に正式に申請を行い、その後タイ現地での調査も行われた。
2024年3月、同労基署は「業務による心理的負荷が強く、精神疾患を発症して自殺に至った」として、正式に労災と認定した。これは日本の企業による海外労働者管理の不備を指摘する重い決定となった。
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労災認定は自殺の明確な認定でもある
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タイ現地の調査では同僚から証言も得られた
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遺族が法的対応まで含めた行動を取ったのは異例
🟨国内勤務者と海外勤務者の労働管理の違い
項目 | 海外勤務者(現状) |
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労働時間の規制 | 労働基準法の適用外(目安なし) |
安全配慮義務の実行性 | 実態として監視が弱く、自己管理に任されがち |
医療・カウンセリング体制 | 国によって整備状況に差があり、実質的には機能していないことも |
言語・文化の障壁 | コミュニケーション不足が精神的負荷に直結 |
企業の対応責任 | 「事後対応」になりがちで、予防措置が乏しい |
母親はなぜ「行動」する決意をしたのか?
どんな活動を始めたのか?
優貴さんの死を受けて、母・上田直美さんはただの遺族として沈黙する道を選ばなかった。
「もし生きていたら、彼は現地で後輩の面倒を見ていたはず」。その思いを胸に、上田さんは企業に対して、海外勤務者の健康管理マニュアルの作成を提案。2024年以降、カナデビア(旧・日立造船)と共に、現実的な制度作りに取り組み始めた。
マニュアルには、「出張・赴任前の研修」「現地での労働時間管理」「定期的な産業医カウンセリング」など、実務的で具体的な項目が列挙されている。企業も取材に対し「協議中であり、内容には踏み込めないが、真摯に対応している」とコメントした。
「マニュアルづくり」の実情と意義
上田さんは2025年3月、同じく海外勤務で家族を亡くした遺族たちと「海外労働連絡会」を設立。労働問題に詳しい岩城弁護士も参加し、定期的な情報交換と政策提言を進めている。
この連絡会は単なる「想いの共有」ではなく、他の遺族の経験や意見を反映した実践的な制度化を目指している。再発防止のための知恵と経験を、ひとつの形にしていく作業だ。
🔁【上田さんの行動と制度化の流れ】
① 息子の訃報 →
② 精神的混乱の中、日記とパソコン履歴を発見 →
③ 労基署へ労災申請 →
④ 弁護士とともにタイ現地調査 →
⑤ 労災認定 →
⑥ 企業にマニュアル作成を提案 →
⑦ 遺族らと「海外労働連絡会」設立 →
⑧ 制度化・政策提言へと発展中
✅ 見出し | 要点(1文) |
---|---|
▶ 労災認定までの過程 | 遺族の調査と申請により、正式に労災が認定された。 |
▶ 母の行動 | 息子の代わりに声を上げ、企業とマニュアルを作成中。 |
▶ 社会的影響 | 海外勤務者の健康管理体制を見直す機運が広がっている。 |
▶ 今後の展望 | 連絡会を軸に、制度改革と政策提言が進められている。 |
ここで注目すべきなのは、悲劇を「終点」にしなかった母親の視点だ。
制度不備を個人の力で変えようとする姿勢は、多くの働く人々にとっての希望であり、社会への問いかけでもある。
社会全体はどう向き合うべきなのか?
制度的な課題と法の盲点
日本の労働基準法は、国内の事業所には適用されるが、海外勤務者には原則適用されない。そのため、過労死ラインとされる時間外労働の上限(月45時間)も、現地法人では法的な拘束力がない。
一方で、企業には「安全配慮義務」がある。法が届かなくても、命と健康を守る責任は、企業の根幹にあるはずだ。
しかし実際には、「自己管理」「現地事情」といった言葉で、企業の監督責任が曖昧にされてきた現実がある。
この構造を是正するには、企業だけでなく国の制度介入が不可欠だといえる。
専門家の意見と提言
青山学院大学の細川良教授(労働法)は「海外勤務は言語・文化・制度の違いで心身の負担が大きい。企業は国内と同様に勤怠管理や医療体制を整えるべきだ」と警鐘を鳴らす。
実際に、心身の不調を抱えても現地では病院に行けず、孤立を深めるケースも多いという。
私たちは、どこまでを「仕事」として容認し、どこからを「命を脅かす労働」と呼ぶべきか?
「海外だから仕方ない」「自己責任」――そう言って済ませていたことが、誰かの命を奪った。
労災認定の重みは、単なる“認定”ではない。それは、社会に突きつけられた問いだ。
法が届かないなら、私たちの感覚が代わりに届くべきだ。
母が動き出したのは、誰かのためではない。未来にいる誰かが同じ死を迎えないようにするためだ。あなたなら、その死を「仕方なかった」で終えられるだろうか。
❓FAQ(読者の5つの疑問)
Q1. なぜ海外勤務では労働基準法が適用されないの?
A1. 日本の法律は国内に限定されており、海外現地法人には原則適用外とされているためです。
Q2. 自殺と認定されるには、どのような証拠が必要ですか?
A2. 精神疾患の診断、勤務実態の記録、日記や証言などが総合的に判断材料になります。
Q3. カナデビア社は遺族の提案を受け入れたのですか?
A3. 取材には「協議中」と回答しており、真摯な対応を示していると見られています。
Q4. 海外勤務者の労災認定件数は多いのですか?
A4. 2023年度までの4年間で10件以上が確認されており、潜在的な問題とされています。
Q5. 今後は何が求められますか?
A5. 法制度の整備と企業の自主的な管理体制の強化、現地医療・カウンセリング体制の充実です。