昭和の漫才コンビ「昭和のいる・こいる」の“のいる”さんこと岡田弘さんが、2025年5月24日に肺炎のため88歳で逝去。脱力系の掛け合いで一世を風靡し、1976年にはNHK漫才コンクールで最優秀賞を受賞。相方こいるさんも2021年に死去しており、コンビとしての歴史が幕を閉じた。SNSでは“昭和がまた一つ遠のいた”との声も。私たちはこの笑いの“間”に何を見ていたのか――。
昭和のいるさん死去
88歳で永眠
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昭和のいるさん死去 88歳 肺炎で 昭和の漫才に一時代
✅ 見出し | ▶ 要点(1文) |
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✅ 訃報の速報 | 昭和のいるさんが肺炎のため88歳で死去した。 |
✅ 漫才師の功績 | 「昭和のいる・こいる」として1970年代の漫才界を牽引。 |
✅ 芸風の特徴 | ゆるやかな語りと早口の応酬で“脱力系”の元祖とも言われた。 |
✅ 今後の予定 | 葬儀は近親者のみで執り行われたと報道されている。 |
なぜ昭和のいるさんの訃報は注目された?
昭和のいるさん(本名:岡田弘〈おかだ・ひろし〉)が、2025年5月24日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。88歳だった。昭和のいる・こいるのコンビで知られ、1970年代を中心に寄席やテレビなどで活躍した名漫才師の訃報に、多くのファンや芸人たちが哀悼の意を表している。
彼の語り口はどこか懐かしく、のんびりとしたテンポで話を展開しながらも、相方の昭和こいる(本名:庄田太一)が「ヘーヘーホーホー」「そんなもんだよ、しょうがねえ」と早口で切り返す芸風で大きな人気を博した。日常のズレや間の面白さを活かした会話劇は、今見ても新しさと懐かしさが同居している。
昭和のいる・こいるは、1976年にNHK漫才コンクールで最優秀賞を受賞。特に浅草松竹演芸場やテレビの演芸番組では常連で、若手時代のビートたけしや志村けんらとも親交があった。今でいう“脱力系”“スロー漫才”の源流を作ったとも言える存在だった。
どこで・いつ亡くなったのか?
昭和のいるさんは2025年5月24日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなった。近年は入退院を繰り返していたとされ、詳細な容体は明かされていない。葬儀は近親者のみで執り行われ、一般への公表は26日に関係者から報道機関へ伝えられた。
どんな人物だったのか?
石川県出身ののいるさんは、1966年に当時人気だった獅子てんや・瀬戸わんやに弟子入り。浅草松竹演芸場で初舞台を踏み、後に昭和こいるさんとコンビを組んだ。長年にわたり演芸界に身を置きながらも、流行に流されず独自のスタイルを守り続けた。
平成以降はテレビ出演は減ったものの、寄席や地方公演では変わらぬ人気を保ち、YouTubeなどで若者に再発見されることもあった。漫才だけでなくエッセイの執筆や講演活動にも力を入れ、芸に対する姿勢は常に真摯だった。
昭和のいる・こいるの特徴は?
昭和のいる・こいるの芸風は一見すると緩慢に見えるが、その実、非常に緻密に構成されていた。のいるさんの淡々とした語りに対し、こいるさんが「へーへーほーほー」と相槌を打ち、核心を突くようないい加減な一言を重ねるという“ズレ漫才”が持ち味だった。
この掛け合いは、いわゆる正統派の“ボケとツッコミ”とは異なる。二人の間に流れる空気感がそのまま笑いを生み出し、観客の想像力を刺激するスタイルは、他に類を見ない独自性を持っていた。
🔍同時代の人気漫才師たちとの比較
項目 | 昭和のいる・こいる | 参考:獅子てんや・瀬戸わんや |
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結成年 | 1966年(初舞台) | 1951年(初代結成) |
スタイル | ズレ系・脱力系・間芸 | 古典的テンポの早口漫才 |
代表フレーズ | 「しょうがねえ」「ヘーヘーホーホー」 | 「あーい、とぅいまてーん」風の応答 |
活動場所 | 寄席・テレビ中心 | テレビ・映画・ラジオにも展開 |
訃報が報じられると、SNSでは「子どもの頃、家族と一緒に観た記憶が蘇った」「昭和がまた一つ遠のいた」といった声が相次いだ。彼らの漫才は、“爆笑”ではなく“微笑”を誘うもので、今の時代にも通じる“余白の笑い”として評価されている。
のいるさんは「笑いにリズムはあってもルールはない」とかつて語ったことがある。その言葉通り、構成に縛られず、“空気”を笑いに変える姿勢は、今なお多くの若手芸人に影響を与えている。
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SNSで「昭和芸能の象徴」としてトレンド入り
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笑いの構造より“空気感”を重視した革新性
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関係者からは「最後まで穏やかだった」との証言も
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昭和の漫才文化のなかでどんな存在だった?
昭和のいる・こいるの存在は、1970年代の「漫才ブーム」以前から寄席やテレビを支えていた“前夜の重鎮”として特別な意味を持つ。華やかなボケとツッコミの応酬が全盛になる直前、彼らはあえて緩やかなテンポを守り、会話の“間”で笑いを生んでいた。
テンションや勢いに頼らず、“沈黙すらネタになる”独特の芸風は、のちのウッチャンナンチャンやさまぁ~ずといった“間を活かす芸人”にも影響を与えたと言われている。昭和のいるさんは、芸を「言葉でなく、空気で構成するもの」と評し、技術よりも感覚を大切にしてきた。
近年は再評価の機運も高まり、YouTubeなどの動画投稿サイトで過去の舞台映像が再生されるたび、「この空気感は唯一無二」「笑いの古典」といったコメントが並んだ。デジタル時代にあっても、昭和の“間芸”は色あせていない。
どう受け止められているのか?
訃報が伝えられると、SNSでは「懐かしすぎて涙出た」「これぞ昭和の芸人」という言葉が相次いだ。中には、当時のビデオを録画していたという昭和ファンが自宅にあるカセット映像をデジタル化し、追悼投稿を行ったケースもあった。
芸能界からは、ナイツの塙宣之さんが「僕らの原点はあの“ゆるさ”にあった」とコメントし、落語協会も「文化の大きな柱を失った」と発表。多くの後輩芸人がその背中を追ってきたことを再認識させる形となった。
昭和こいるさん(2021年死去)とともに、“昭和”という名を冠したこのコンビが同じ時代に生き、その名の通り昭和を象徴する存在だったという事実が、今あらためて浮かび上がってきている。
なぜ今、再評価されるのか?
「昭和のいる・こいる」は、“ツッコミが適当すぎる”という点でよく語られるが、むしろその“不完全さ”こそが共感を生んだとも言える。完璧な掛け合いではなく、噛み合っているようで噛み合わない。それが“人間味”を帯びた笑いとなり、観客の想像力を引き出した。
令和の現代では、情報のスピードや芸の緻密化が進んだ一方で、「余白」や「雑談」に価値を見出す動きもある。その中で、のいる・こいるのような“語らないことの面白さ”が、若い世代に再発見されている。
「何も起きていないのに面白い」という矛盾を成立させた彼らの芸は、まさに“間の魔法”と呼ぶにふさわしい。それは過去の遺物ではなく、今もなお、日常の会話や演芸の中に息づいている。
🔁昭和のいる・こいるの軌跡
1966年 初舞台(浅草松竹演芸場)
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1970年代 テレビ・寄席にて人気漫才師として活躍
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1976年 NHK漫才コンクール最優秀賞受賞
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2000年代 活動縮小も、寄席や講演に登壇
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2021年 昭和こいるさん死去(前立腺がん)
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2025年 昭和のいるさん死去(肺炎)
ここで注目したいのは、「ゆるさ」と「余白」に人々が魅力を感じる現代の価値観だ。情報や効率に囲まれた令和の生活において、彼らの“肩の力を抜いた”芸風が、むしろ新鮮に響いているのである。
問いは笑いのなかにある。
昭和のいるさんの漫才は、意図的に沈黙を生み、予定調和を避ける。そこには、「語らないことの勇気」があった。
速さでもテンションでもない。芸とは何かを考えるとき、彼の“間”に潜む問いかけを無視することはできない。
情報過多の時代にこそ、あの「間」が必要だったのではないか。
観客はその余白の中に、自分の思い出や感情を自由に重ねることができた。
つまり、あの芸は「観客が完成させる」構造だった。
亡くなった今、もう新しいステージを見ることはできない。
だが、その“沈黙の美学”は、これからの表現者たちが繰り返し立ち返る場所になるだろう。
❓ FAQ|よくある質問とその答え
Q1. 昭和のいるさんはどんな芸人でしたか?
A1. 淡々とした語りに相方が適当に返す“間芸”で知られ、昭和の笑いを象徴する存在でした。
Q2. 「昭和のいる・こいる」の代表的なネタや特徴は?
A2. 「ヘーヘーホーホー」「しょうがねえ」などの掛け合いと独特な間合いが印象的です。
Q3. なぜ今、再評価されているのですか?
A3. 高速・情報過多な現代において、“ゆるさ”や“余白”のある笑いが新鮮に映るからです。
Q4. 昭和こいるさんも亡くなっているのですか?
A4. はい、相方のこいるさんは2021年12月に前立腺がんで亡くなっています(享年77)。