ダチョウ倶楽部
南部虎弾脱退した理由
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お笑いトリオ・ダチョウ倶楽部。その名を聞けば「押すなよ!絶対に押すなよ!」のやりとりを思い出す人も多いだろう。しかし、かつてはこのトリオが“カルテット”だった時代があったことはあまり知られていない。脱退したメンバーは誰なのか、なぜ脱退したのか。リーダー・肥後克広が語った、もう一人のメンバー・南部虎弾との“思想の違い”とは何だったのか――。
✅要約表
なぜ南部虎弾さんはダチョウ倶楽部を脱退したのか?
初期の4人体制とその終焉
ダチョウ倶楽部の原点は、現在の3人ではなく“4人”だった。肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵、そしてもう一人――それが南部虎弾である。活動開始から約2年後、南部はグループを脱退。その背景には、「俺はボケをやりたくないんだよ」という彼自身の強い主張があったという。
発端となったFMラジオ体験
当時、4人で出演したFMラジオ番組が転機となった。南部がニュースのように語った投稿紹介が、想定外に好評だったのだ。南部は興奮気味に「俺、久米宏になれるかも!」と語り出し、次第に“お笑い”から“報道風の語り”に自らの可能性を見出すようになった。
「過激な笑い」が芸人魂を分けた
南部の志向は、いわゆる「リアルで過激な笑い」だった。小道具として犬のフンをリアルに再現するなど、彼の提案はどれも過激で実験的。その一方で、他の3人は「テレビで通用するお笑い」「子どもも楽しめるコント」を模索していた。
南部のアイデア例とメンバーの温度差
ある夜、南部から電話がかかってきた。「ビー玉って飲めるのかな?」と真剣に聞いてくる。それを聞いたメンバーは皆「いや、無理だろ…」と苦笑い。方向性の違いが徐々に鮮明になっていった瞬間だった。
その後の再会と“笑い”の分岐点
南部はダチョウ倶楽部を脱退後、「電撃ネットワーク」という過激パフォーマンス集団を結成。釘を鼻に刺したり、電気を流したりといった体当たり芸で一世を風靡する。一方、肥後ら3人はテレビのバラエティ番組で人気を確立。笑いの形はまったく異なれど、いずれも独自の道を切り拓いていった。
肥後克広が語った“今だから言えること”
後年、クイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』で再会した4人。その際、肥後は「南部がいたから今のダチョウがある」と回想。「笑いの方向性が違っただけで、ケンカ別れじゃなかった」と、今なお感謝の思いを口にしていた。
✅南部虎弾の志向と残る3人の志向
南部虎弾の志向 | 残る3人の志向 |
---|---|
過激・体験型・リアル系 | 王道・お約束・バラエティ型 |
ニュース的語り芸 | コントやリアクション芸 |
電撃ネットワーク路線 | 地上波お茶の間向け芸風 |
南部虎弾の脱退は、衝突や不仲によるものではなかった。彼の中で、「笑いとは何か」という価値観が変化した結果だったのだ。脱退後の南部は、誰にも真似できない体当たり芸で独自の地位を築き、現在もそのスタイルを貫いている。
一方で、肥後克広は語る。「南部がいた時代があるからこそ、ダチョウ倶楽部は“3人組”として確立できた。方向性は違っても、根っこの部分ではつながっていたと思う。」
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南部は現在もパフォーマーとして活動中
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肥後は南部に対し「感謝してる」と明言
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この“分岐”が、3人組のスタイルを決定づけた
南部虎弾さんと電撃ネットワーク、その芸風はどう広がったのか?
唯一無二の「電撃芸」が確立された道のり
ダチョウ倶楽部を離れた南部虎弾は、1990年代に「電撃ネットワーク」というパフォーマンスグループを旗揚げする。釘を鼻に刺す、電流を身体に流す、身体能力の限界を超えるような芸風は、世界中のパフォーマーからも「ジャパニーズ・クレイジーアート」として注目された。
国内よりも海外で評価された理由
日本では時に“やりすぎ芸”と見なされがちだったが、海外では現代アートや政治風刺と重ねて高く評価された。電撃ネットワークはアメリカやドイツなどで大規模なパフォーマンスを行い、社会的メッセージ性を帯びた表現としても浸透した。
電撃ネットワークが示した“笑いの限界点”
南部たちは「笑いは命を賭けてでも挑戦できるもの」という信念を体現していた。いわゆる“安全なバラエティ”の対極に位置し、身体の危険や痛みを笑いに昇華するその姿勢は、まさに芸人としての究極形とも言える。
それでも「芸人」として評価された理由
電撃ネットワークは笑いを「演出」ではなく「衝撃と共感」で届けるスタイルを確立。南部は語っている。「俺たちは『笑わせたい』んじゃない。見た人に『笑ってしまった』と言わせたいんだ」と。
南部の活動は、“異端”でありながらも一つの完成形だった。かつての仲間であるダチョウ倶楽部とは全く違う道を歩みながらも、「体を張る芸」への敬意は共有されていた。
実際、電撃ネットワークとダチョウ倶楽部が共演することはなかったが、両者ともに“リアクション芸の極致”を追い続けたという意味では、決して無関係ではない。
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海外パフォーマンスではスタンディングオベーションが定番
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南部はテレビより“現場”重視の思想を貫いた
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肥後は「自分には真似できない」とリスペクトを公言
✅南部虎弾の“思想の変遷”とその後
久米宏に憧れる
↓
お笑いのボケ役に違和感
↓
“リアル表現”への興味が増す
↓
ダチョウ倶楽部脱退を決意
↓
電撃ネットワークを結成
↓
身体パフォーマンス芸を世界で披露
↓
芸人ではなく“思想表現者”として確立
見出し | 要点 |
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南部のその後 | 電撃ネットワークを結成し独自路線へ |
国内外の評価差 | 海外で芸術的表現として高評価 |
体当たり芸の本質 | 笑いと痛みの境界に挑んだ芸人魂 |
共通点と相違点 | ダチョウと電撃は異なるが、根源は共通 |
読者の中には「過激なだけで芸じゃない」と感じる人もいるかもしれない。しかし、電撃ネットワークの活動を深掘りすればするほど、そこには笑いに対する極めて真摯な姿勢が浮かび上がってくる。体で語る表現、それは言葉以上に伝わる“芸”だったとも言える。
ダチョウ倶楽部と南部虎弾、“笑いの道”が違っても交差するのか?
共演はなくても、心のどこかで“尊敬”し合っていた
南部と肥後たちは、笑いのステージでは交わらなかった。しかし、肥後はたびたび「南部がいたから今がある」と語り、南部もまたテレビでダチョウ倶楽部の活躍に触れ「うれしい」とコメントしたことがある。
分かれたのは芸風、では“本質”は?
共に追い求めていたのは“唯一無二のリアクション”だった。南部が火をつけた「体を張る笑い」は、結果としてダチョウ倶楽部の代名詞にもなった。たとえスタイルが違っても、その源泉にあった「お笑いへの覚悟」は共通していた。
✅恐怖と紙一重
“笑い”は、突き詰めれば恐怖と紙一重の行為だ。南部虎弾は、まさにその境界線を素足で歩いた男だった。彼がビー玉を飲めるかを真剣に考えた夜、その時点で既に「テレビの枠」など眼中になかったのだろう。
芸とは、他者にとって「理解しづらい」ほど深くなる。電撃ネットワークの芸は、万人受けはしなかったかもしれない。でも、それこそが“表現”であり、“思想”であり、“お笑い”だった。
ダチョウ倶楽部が守った「伝統」もまた尊いが、南部が破った「型」もまた必要だった。今、振り返ればそれは――“理想的な別離”だったのかもしれない。
✅FAQ(3問)
Q1. ダチョウ倶楽部は本当に4人だったの?
→ はい。結成初期には南部虎弾を含めた4人で活動していました。
Q2. 南部虎弾さんの現在の活動は?
→ 現在も電撃ネットワークとしてステージ活動を続けており、国内外でパフォーマンスを披露しています。
Q3. ダチョウ倶楽部と南部さんは仲が悪かったの?
→ いいえ。方向性の違いによる円満な別れであり、互いにリスペクトの気持ちを持っています。