大阪市内の神社で起きたボヤ騒ぎをめぐり、「犯人はイスラム教徒で、邪教だから火をつけた」という文書が神社庁から各地へFAX送信され、SNSで拡散。だが実際は、子どもによる悪戯で、宗教的動機は否定された。宮司と神社庁の間に証言の食い違いがあり、誤情報が生まれた背景には報告と文書作成の確認不足があった。制度的な教訓が問われている。
「邪教だから火をつけた」
神社FAX誤情報の波紋
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2025年6月、大阪市内の神社で発生したボヤ騒ぎをめぐり、「犯人はイスラム教徒で、邪教だから火をつけた」と記された文書が神社庁から各神社へ送信され、SNS上で拡散した。だが、警察の調査では子どもによる火遊びであり、宗教的な供述は確認されていない。報告と文書内容の食い違いが、誤情報と偏見の拡大を招いた。
なぜ「邪教だから火をつけた」と誤解されたのか?
大阪市内の神社で起きた火災騒ぎを発端に、SNSを中心に誤解が拡散した。「イスラム教徒が邪教だから火をつけた」という断定的な投稿が繰り返されたが、警察と現場の神職によれば、実際には宗教的な動機は確認されていないという。
事件は2024年12月、大阪市天王寺区にある神社の境内で発生した。境内の一部で落ち葉が燃えているのを通行人が発見し、すぐに消防が出動。幸い、建物への延焼はなく、ケガ人も出なかった。現場には防犯カメラが設置されており、映像には子ども3人が火をつける様子が記録されていた。警察はこの行為を「いたずら」と判断しており、宗教や民族的背景が関係した証拠はないと明言している。
しかし、事件後に神社庁が加盟神社宛に送付したFAX文書の中に、「犯人は邪教だから火をつけたと供述していた」という文言が含まれていた。この文書の画像がSNSに転載され、情報が独り歩きする形で広がっていく。とくに一部の投稿では、「イスラム教徒が犯人」との決めつけが加えられ、偏見を助長する発信が相次いだ。
神社の宮司は「そもそも犯人とは直接話しておらず、『邪教』という言葉を使った記憶もない」と否定した。神社庁は「宮司から聞いた内容を要約した」と説明するが、記述の正確性や確認体制については疑問の声が上がっている。こうした行き違いが、誤った情報として拡散される一因となった。
誰が、なぜ“宗教的誤解”を広めたのか?
FAX文書の影響は想像以上に大きかった。神社庁が発信元であったことから、内容に信憑性があると捉えられ、多くのSNSユーザーが画像とともに文書を転載。短時間で数万回以上閲覧され、転載された投稿の中には、イスラム教や外国人全体に対する差別的な表現も見られた。
一方、警察の発表では、犯人とされた子どもたちの供述に「邪教」や宗教的な内容は含まれていなかった。事件の構造としては、次のような流れとなっていた。
まず、現場の神社で火災が発生。これを受けて神社庁が事案を報告するFAXを作成。そこに記載された一文が、SNS上で宗教的動機を裏付ける“証拠”として誤認された。文書化された言葉は、目撃者の印象や伝聞であっても、公式な「記録」として拡散されていく。
SNSでは訂正情報が広まりにくく、特に印象の強い内容が「バズり」やすい。この事件では、視覚情報としてのFAX文書が、宗教的な誤解を固定化させる役割を果たしてしまったといえる。
文書の一文が社会を揺らすとき
今回の件で象徴的だったのは、「善意の注意喚起」が差別的な印象を与えるリスクだ。神社庁は再発防止のため、情報共有時の記述や確認体制を見直す方針を示したが、情報を取り扱う段階での配慮や検証がなければ、こうした誤解の連鎖は繰り返される可能性がある。
また、報道機関やSNS利用者にも問われるのは、「拡散の前に一度立ち止まる視点」だ。特定の宗教や民族に対する言及は、たとえ事実であっても慎重さが求められる。誤った前提で拡散された情報は、当事者に深刻な影響を与え、無関係な人々をも巻き込む形で炎上を生む。
警察も神社も、事件自体の軽重よりも、誤情報の拡散によって生じた社会的な余波に対応を迫られる格好となった。小さなボヤ騒ぎは、気づけば宗教問題という別次元の争点に変質していた。
なぜ文書の一文が“誤解”を生んだのか?
SNSで拡散された神社庁のFAX文書には、「犯人はイスラム教徒で『邪教だから火をつけた』と供述している」と記されていた。この文言が注目を集め、多くのユーザーが真偽を確かめないまま拡散した。
神社庁は取材に対し「宮司がそう話した」と主張しているが、当の宮司は「邪教という言葉は使っていない」と否定。犯人とも直接話しておらず、伝聞の誤解が含まれた可能性が高い。警察も宗教的な動機は一切認めておらず、誤情報として文書の訂正を求めている。
FAX文書という公式に見える形が、拡散と誤解を加速させた。発信源が宗教法人であったことも信頼を与えてしまい、結果としてSNS空間に「印象でつくられた事実」が定着した。
なぜ“宗教と結びつける言葉”が使われたのか?
神社庁側は「復唱しながら確認した」と述べているが、メモや録音の記録は残っていなかった。宮司側との間に“印象の差”があったとしても、宗教的表現の使用には高い慎重さが求められる。
FAX文書は内部用の注意喚起のつもりだったというが、現在はSNS時代。情報は一度ネットに出れば、瞬時に全国へと波及する。善意の通達が差別を助長する結果になったことに、情報発信側の自省が問われる。
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「宗教的意図を持って放火」と誤認される危険性
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内部文書でも「読まれ方」を意識する必要性
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当事者との確認プロセスを記録で残すべきという教訓
実際の供述とFAX記載の違いは?
誤情報が拡散するまでの流れ
神社でボヤ発生
↓
宮司が神社庁に電話で報告
↓
神社庁がFAX文書を作成
|(復唱による確認と主張)
↓
「犯人はイスラム教徒」「邪教と供述」と記載
↓
SNSで文書画像が拡散
↓
宗教差別的印象が形成される
↓
警察が事実と異なると否定、訂正へ
整っていた。だが、それだけだった。
FAXの一文は、見れば誤解を生まないはずだった。
だが、SNSという拡声器を通して届いた時、その文は別の顔を持っていた。
神社庁の意図がどうであれ、届いた先の読者にとっては、それが「真実」になってしまうのだ。
誰が“真実”を決めるのか?
誤解というものは、時に、説明よりも速く広がる
「邪教だから火をつけた」と記された一文は、それだけを読めば、犯人の強烈な思想の表れに見えるだろう。だが、それは“本当に言われた言葉”ではなかった。誰かの記憶の中に浮かんだ印象が、紙面に、そしてネットに映し出されたにすぎない。
問題は、それが「公式の文書」だったことだ。誰が書いたかよりも、「どこから出たか」が重く受け取られるのが、この社会の構造でもある。神社庁という宗教法人の名を持って配信された文書が、SNSで切り取られ、政治的にも宗教的にも消費されていった。
この国では、「空気」が事実を上書きしていく。
誰もが確認を怠り、確信を持てぬまま、炎のように言葉だけが先走る。そして残るのは、当事者に向けられる無数の視線と、言い訳のできない誤解の痕跡。
「真実」は誰かの目で見られるものではない。多くの場合、「言われた」とされる内容と、「記録に残った言葉」のあいだに、もうひとつの“編集された真実”が横たわっている。
だからこそ、私たちは訊かなければならない。
あの言葉は、本当に語られたのか。
それとも、そう“思いたかった”だけなのか。
❓FAQ
Q:大阪の神社で起きた火災の原因は何ですか?
A:防犯カメラの映像などから、子ども3人によるマッチの火遊びが原因とされています。建物には燃え移らず、ケガ人もいませんでした。
Q:本当に「邪教だから火をつけた」と供述されたのですか?
A:警察と神社の宮司は、宗教的な発言や供述はなかったと明言しており、これは誤情報とされています。
Q:大阪府神社庁が送ったFAX文書には何が書かれていたのですか?
A:「犯人はイスラム教徒で『邪教だから火をつけた』と供述」と記載されており、これがSNSで拡散されました。
Q:実際に犯人はイスラム教徒だったのですか?
A:火をつけたのは小学生とみられる子どもたちで、その中に外国人の子が含まれていたという情報はありますが、信仰に関する確認はされていません。
Q:神社庁の対応に問題はあったのですか?
A:宮司は「邪教とは一切言っていない」と述べており、神社庁の確認不足や表現の齟齬が、誤情報拡散につながったとされています。