甲府市の男性職員が2020年、市役所構内で命を絶った。背景には月200時間を超える残業と、自己申告に頼る勤務時間管理の限界があった。労災認定と賠償命令を経て、いま市民は市長の責任を問う異例の訴訟に踏み切ろうとしている。
過労自殺と住民訴訟の経緯
発覚と労災認定の経緯
甲府市の男性職員・向山敦治さん(当時42歳)は、2019年4月に「事務効率課」に配属された後、過重な業務に従事していた。長時間労働が常態化し、2020年1月には市役所構内で自ら命を絶った。
その後の遺族の提訴を受け、甲府地裁は2024年10月、業務内容が過重であったと認定し、甲府市に対し約7180万円の損害賠償の支払いを命じた。この判決は確定している。
当時の勤務実態としては、亡くなる直前1か月の残業時間が約148時間、さらにその前月には約209時間に達していた。業務内容は新しい情報システムの導入に関するもので、連日未明までの勤務が続いていたという。
しかし、職場への申告では月20~30時間程度の残業しか報告されておらず、実態と乖離があった。残業時間が自己申告制で管理されていたため、過剰な労働が表面化しにくい状況があったことが背景にある。
判決文の要旨と時間外労働の実態
判決では、向山さんの業務について「心身の健康を損なう蓋然性が高い状態にあった」と指摘された。これは、業務内容・残業時間・勤務体制の三要素が重なっていたことに基づいている。
特に注目されたのは、形式的な勤務管理の運用であった。当時の甲府市では、勤務時間の把握を職員自身の申告に委ねており、客観的な把握手段がなかった。市側はその後、パソコンの使用記録などを自動で収集するシステムを導入したが、それは向山さんの死後の対応だった。
このような勤務実態の管理不足が、結果的に長時間労働の見過ごしを許し、職員の命を守ることができなかったとの批判が強まっている。
他自治体・制度との勤務時間管理体制の比較
向山さんが勤務していた当時、甲府市では自己申告制によって残業時間が管理されていた。これに対し、他の自治体や厚生労働省が推奨する体制では、より客観的な労働時間の把握が義務付けられている。
以下は、勤務時間管理体制の比較である。
この比較から明らかなように、甲府市は制度整備が他自治体や国の基準に比べて後れを取っていたといえる。また、既存制度との乖離が放置されたことが、過労死リスクの高まりを見逃す一因となった。
市側はその後、パソコンの稼働記録や出退勤ログを活用した勤務時間管理システムを導入しているが、それは「死亡後の対応」であったことが、今回の訴訟の根拠の一つにもなっている。
管理体制の限界と訴訟
向山敦治さんが勤務していた2019年当時、甲府市では自己申告による勤務時間の記録方式が採用されていた。申告された残業時間は月20~30時間程度にとどまっていたが、実際の時間外労働はその数倍に上っていた。市はその後、職員のパソコン操作記録などを自動で取得できるシステムを導入しているが、それは死亡後の対応であった。
この状況を受け、遺族による損害賠償訴訟に対し甲府地裁は2024年10月、「業務負担は過重で、心身の健康を損なう蓋然性が高い」として、市に約7180万円の賠償支払いを命じた。この判決を経て、市民側は新たに「市長個人に賠償責任を求める住民訴訟」へと踏み切った。
原告側が訴えるのは、市長である樋口雄一氏が適切な勤務時間把握体制を整備しなかったことが、向山さんの自殺につながったという点である。市側が賠償金を支払った以上、その財源の一部または全部を市長に個人で負担させるべきだという主張である。
原告の主張と住民監査の流れ
原告側の代理人である松丸正弁護士(大阪弁護士会)は、今回の訴訟について「勤務時間を適正に把握する仕組みをつくらなければ、トップの責任が問われることもあると警鐘を鳴らしたい」と語っている。
住民らは2025年4月に、市に対して市長の賠償責任を問う住民監査請求を行っていた。しかし、市は6月にこの請求を棄却した。その後、原告側は住民訴訟への移行を決断し、甲府地裁へ正式に提訴する運びとなった。
このように、市側の初動と監査対応が十分でなかったことも、今回の訴訟の背景にあるといえる。
構造整理表
項目 | 向山さんの死亡前 | 死亡後の変更 | 原告側の主張 |
---|---|---|---|
勤務時間管理 | 自己申告制 | PC操作ログでの自動取得 | 死亡前に導入すべきだった |
市長の対応 | 管理体制の構築なし | 死後に改善策を導入 | 対応の遅れが重大な過失に当たる |
損害賠償 | 市が全額負担 | ― | 公金での支払いは不当 |
訴訟の性質 | 遺族 vs 市(2022~2024) | 市民 vs 市(2025) | 首長の個人責任を問う異例の提起 |
この訴訟が注目されるのは、「公務員の過労死・過労自殺において、首長個人の法的責任が争点となるのは異例」と報道各社が一致して伝えている点にある。単なる制度不備ではなく、「管理責任」と「財政負担責任」が連動して問われているという意味で、自治体運営全体に警鐘を鳴らす訴訟となっている。
過労自殺から住民訴訟までの流れ
フェーズ | 内容 |
---|---|
①業務負担 | 長時間残業(最大209時間)、深夜勤務が常態化 |
②申告乖離 | 自己申告制により20~30時間と記録される |
③死亡・労災認定 | 2020年自殺 → 労基署が2022年に労災認定 |
④賠償判決 | 2024年10月、地裁が市に7180万円の支払いを命令 |
⑤住民監査請求 | 2025年4月 市民が「市長の責任」を求めて請求 |
⑥訴訟移行 | 監査棄却 → 市長個人への賠償請求として提訴 |
◆FAQ
Q1. 向山敦治さんはどのような業務を担当していた?
A1. 情報システム導入に関連する業務で、繁忙期は連日深夜までの勤務が続いていたと報道されている。
Q2. 実際の残業時間と申告の乖離は?
A2. 直前の月に約148時間、前月には209時間の残業があったが、申告は月20~30時間にとどまっていた。
Q3. なぜ市長に対する訴訟が「異例」とされるのか?
A3. 公務員の過労死に関する住民訴訟で、首長個人の責任を直接問うケースは非常に珍しいとされるため。
Q4. 市はその後、どのような対策を講じたのか?
A4. 死亡後に、職員のPC使用ログなどを活用した勤務時間の客観的管理システムを導入した。
Q5. 市民側はどのような主張をしているのか?
A5. 市長が職員の過労を未然に防ぐ体制を構築せず、結果的に死亡を招いた重大な過失があると主張している。
全体の論点整理
本件が示したのは、制度だけでなく管理責任の所在をどこまで追えるのかという行政ガバナンスの問題である。勤務時間管理の形式やツールは整備できても、それを運用する体制や意識が伴っていなければ、命を守るには不十分となる。
自治体のトップに対して、市民が「見過ごされた責任」を問う構造は、地方行政のあり方を根底から見直す契機となっている。