
『出発の歌』などで知られる歌手で俳優の上條恒彦さんが、2025年7月22日、長野県内で老衰のため85歳で亡くなりました。世界歌謡祭でのグランプリ受賞、紅白歌合戦出場、ジブリ映画の声優出演など、幅広い分野で活躍。舞台『ラ・マンチャの男』では46年間にわたり948回公演に出演し、舞台を支えた名優として知られました。晩年は長野県に拠点を移し、農業と地域文化活動にも尽力。多くの共演者・ファンに惜しまれつつ、その豊かな声と演技は今も記憶に残り続けています。
上條恒彦さん死去
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大ヒット曲『出発の歌』で知られ、舞台・映像・声優と幅広い分野で活躍した歌手で俳優の上條恒彦さんが、85歳で亡くなった。誤嚥性肺炎による体調悪化を経て、2025年7月22日に老衰のため長野県内の病院で死去。長年にわたり“声の表現者”として世代を超えて支持され、最期まで音楽と演劇に情熱を注ぎ続けていた。
歌手活動と「出発の歌」の評価
上條恒彦さんは1969年に「雨よ降れ」で歌手デビューしたのち、1971年にフォークグループ「六文銭」との共演による『出発の歌(さよならをするために)』で一躍脚光を浴びた。同曲は70万枚を超えるセールスを記録し、同年の世界歌謡祭でグランプリを受賞。翌1972年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、高校音楽の教科書にも掲載されたことで広く知られるようになった。
その後も、ドラマ『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」や、丸大食品のCMソング「ハイリ ハイリフレ ハイリホ~」など、力強く澄んだ声を生かした歌唱が記憶に残る作品を多数生み出した。とりわけ“別れ”や“旅立ち”を題材としたフォーク調の楽曲には、独特の重厚感と人間味が込められていたと評価されている。
舞台で支えた名優としての生涯
俳優としての上條さんは、舞台『ラ・マンチャの男』で1977年から2023年まで牢名主の役で出演を続け、通算948回を超える公演に立ち続けた。主演・松本白鸚を支える演技者として、演出陣や観客からも「影の主役」と称された存在だった。
また、1980年からはミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』に参加し、1986年には故・森繁久弥氏からの指名により主演の座を継承。壮年期以降の舞台活動の中心として、自らの演劇人生を重ねたという。ほかにも『マイ・フェア・レディ』『回転木馬』など数多くの作品に出演し、歌と演技の両面で舞台の質を支えてきた。
上條恒彦さんの出演作品と長期公演の記録
晩年の暮らしと最期の舞台
長野県朝日村出身の上條さんは、再婚後の1987年に富士見町へ移住。妻の「自然の中で子育てしたい」という希望と、自身の都会生活への疲弊感が重なり、農業を取り入れた暮らしを選んだ。約800㎡の畑で大根やブロッコリーなどを育て、地域の文化イベントや映画試写会にも積極的に関わっていた。
晩年も舞台出演を継続していたが、2023年末に誤嚥性肺炎を発症し、一時は危篤状態となった。今年1月に都内で行われた映画『シンペイ 歌こそすべて』の舞台挨拶には欠席し、「皆さまの前で歌えないことが残念でなりません」と綴った手紙が代読された。以降も復帰を目指してリハビリに取り組んでいたが、2025年7月22日、長野県内の病院で家族に見守られながら息を引き取った。
映像・アニメ作品での存在感
上條恒彦さんは舞台俳優としての活動に加え、テレビ・映画・アニメなど映像作品の分野でも存在感を放っていた。ドラマではNHK大河ドラマ『秀吉』や『3年B組金八先生』で印象深い演技を披露。特に『金八先生』では、ひげと眼鏡を特徴とした社会科教師・服部肇役を長く演じ、親しみある教育者像として記憶されている。
アニメ映画では、スタジオジブリ作品への参加も知られ、1992年の『紅の豚』では空賊「マンマユート団」のボス役、2001年の『千と千尋の神隠し』では建物のナレーションを務めるなど、豊かな低音の声を活かした演技が高く評価された。テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』の初期ナレーションも担当しており、世代を超えて“聞き覚えのある声”として支持されていた。
共演者たちが語った温かなまなざし
上條さんの訃報には、長年の共演者たちからも多くの追悼の言葉が寄せられた。ドラマ『金八先生』で共演した武田鉄矢さんは、「子どもと一緒に泣きながら芝居をしていると、クラスの隅で泣いてくださる先生でした」と述べ、その誠実さと温かさに深い感謝を示した。
ミュージカル『ラ・マンチャの男』で共演を重ねた松本白鸚さんは、「舞台を離れても、いつも優しく励ましてくれた」と語り、舞台上の存在だけでなく、楽屋裏でも信頼を寄せていた様子がうかがえる。
また、アニメ『紅の豚』で共演した加藤登紀子さんは、「80歳を超えても舞台に立ち続ける姿に励まされてきた」と述べ、音楽と表現を貫いた人生に惜しみない敬意を表していた。
長野での暮らしと文化活動の歩み
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1987年 | 長野県富士見町に移住(再婚後) |
| 1990年代 | 農業を開始、畑で野菜栽培を本格化 |
| 2000年代 | 地元文化イベントに定期出演 |
| 2010年代 | 舞台活動と並行して、音楽会や講演を実施 |
| 2023年11月 | 映画『シンペイ 歌こそすべて』試写会に登壇 |
| 2024年1月 | 公開記念イベントを体調不良により欠席 |
| 2025年7月 | 家族に見守られ長野県内で死去 |
この歩みは、都市から地方へと価値観を転じたアーティスト像を象徴し、晩年まで地域文化の担い手として生きた軌跡でもあった。
よくある5つの疑問
Q1. 上條恒彦さんの代表作には何がありますか?
A. 歌手としては『出発の歌』『だれかが風の中で』、俳優としては『ラ・マンチャの男』『屋根の上のヴァイオリン弾き』などが挙げられます。
Q2. 最後の出演作は何ですか?
A. 映画『シンペイ 歌こそすべて』のエンディングテーマ歌唱が最後の仕事の一つとされています。
Q3. 紅白歌合戦には何回出場しましたか?
A. 確認できる限りでは、1972年に初出場しています。以降の出演記録は公的アーカイブでは確認されていません。
Q4. 「ハイリ ハイリフレ~」のCMは何の製品でしたか?
A. 丸大食品のCMソングで使用され、上條さんの代表的な歌声として広く親しまれました。
Q5. お別れの会などは予定されていますか?
A. 遺族の意向により、葬儀・告別式は親族のみで執り行われ、お別れの会は実施されないと公表されています。
全体の要点
舞台と声の記憶が残した影響
上條恒彦さんの生涯は、「声」の表現が人を励まし、社会に届くという確かな実例だった。『出発の歌』のバリトンは別れと希望を内包し、俳優としての演技は“主役を支える力”として舞台を支え続けた。とりわけ『ラ・マンチャの男』では、声量と存在感で主役を包み込む牢名主役に徹し、千回近い公演を通して観客と物語を共有し続けた。
さらに、ジブリ映画における太く、温かな語り口は世代を越えて親しまれ、「声優」と「俳優」の境界を超える表現の豊かさを証明した存在ともいえる。
都市から離れて長野に根を下ろした晩年も、上條さんは言葉と声で人とつながり続けた。人の心に残るとはどういうことか。その答えを、彼の歌と舞台の中に見ることができる。