
2025年、OISTがマウスの「敗者効果」を生む脳のスイッチを特定。背内側線条体の神経細胞を除去すると“負けグセ”が消える――経験が行動を変える脳の仕組みを解説。
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マウスが教えてくれた「負けグセ」のスイッチ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 研究発表 | 沖縄科学技術大学院大学(OIST)が2025年10月14日に発表した研究 |
| 主な発見 | マウスの「敗者効果(負けグセ)」をつくる脳内スイッチを特定 |
| 対象実験 | 雄マウスによる優位性チューブテストと社会順位の観察 |
| 注目の部位 | 背内側線条体(DMS)にあるコリン作動性介在ニューロン(CINs) |
| 主な結果 | この神経細胞群を除去すると“敗者効果”が消失し、“勝者効果”は維持された |
| 意義 | 社会的順位を左右する「経験学習」と「意思決定」の脳内メカニズムを解明する手がかり |
| 掲載誌 | iScience(Cell Press, 2025年) |
人間の社会にも上下関係があるように、動物の世界でも「強い」「弱い」の関係は避けられません。体の大きさや力だけでなく、過去の経験がその後の行動に影響することもあります。沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームは、マウス社会で「負けグセ」を生む脳のスイッチを発見しました。2025年に発表されたこの成果は、経験がどのように社会的なふるまいを変えるのかを解き明かす重要な一歩です。
経験がつくる社会順位――マウスで見た「勝者効果」と「敗者効果」
研究に使われたのは雄のマウスです。チューブの両端から1匹ずつ入れ、中央で出会ったときにどちらが相手を押し戻せるかを試す「優位性チューブテスト」という方法が使われました。
このシンプルな実験を何日も繰り返すと、自然と“押し勝つマウス”と“押し負けるマウス”が分かれます。
次に、同じように勝ち続けた個体同士、負け続けた個体同士を別々のケージで対戦させると、社会的な順位が変化しました。ここで観察されたのが「勝者効果」と「敗者効果」です。
一度勝った個体は次も勝ちやすく、一度負けた個体は次も負けやすくなる――つまり、過去の経験が次の行動結果を左右していたのです。
この現象は、動物が社会的地位を決めるときに「体の強さ」だけでなく「経験の学習」が重要であることを示しています。研究チームは、この仕組みを司る脳の領域を探りました。
脳のスイッチを探して――「背内側線条体」と“敗者効果”の関係
研究チームが注目したのは、大脳基底核の一部である**背内側線条体(DMS)**です。この領域は、過去の経験をもとに行動を調整する「柔軟な意思決定」に関与すると考えられています。
DMSには、**コリン作動性介在ニューロン(CINs)**と呼ばれる特定の神経細胞が存在します。チームはこの細胞群をマウスから選択的に取り除き、再び優位性チューブテストを実施しました。
すると驚くべき結果が現れました。
CINsを除去したマウスでは、「敗者効果」が消えたのです。過去に負けた経験があっても、その後の対戦で劣位になりにくくなりました。一方で、「勝者効果」は変化しませんでした。
このことは、「勝ちグセ」と「負けグセ」が異なる神経回路によって制御されている可能性を示しています。
研究チームは、勝者効果は「報酬に基づく学習」、敗者効果は「状況に応じた意思決定の調整」に関わると考えています。つまり、敗北を経験したときに慎重になる――その判断を支えているのがCINsだというわけです。
勝者効果と敗者効果の違い(マウス実験の結果)
| 分類 | 関与する脳機能 | 経験による変化 | CINs除去後の変化 |
|---|---|---|---|
| 勝者効果(勝ちグセ) | 報酬学習・行動の強化 | 勝った経験が次も優位を保ちやすくする | 変化なし(維持) |
| 敗者効果(負けグセ) | 状況依存の意思決定 | 負けた経験で次の対戦に消極的になる | 消失(慎重さが働かなくなる) |
この比較から、「勝ちグセ」と「負けグセ」は同じ学習ではなく、脳の異なる仕組みによって支えられていることが分かります。CINsは“安全運転モード”のスイッチとして働いている可能性があります。
経験が行動を変える――人間社会への示唆
OISTの研究者は、「人間の社会的な順位はマウスほど単純ではないが、脳構造には共通点がある」と述べています。
人間でも、家庭や職場など、状況によって立場が変わるのは自然なことです。もし脳の中に「慎重さ」や「挑戦の度合い」を調整する仕組みが存在するなら、社会的なふるまいの理解に新たな視点を与えるかもしれません。
もちろん、マウスと人間の脳は同じではありません。しかし、この研究は“勝ち負け”という単純な現象から、社会行動の柔軟さに迫るヒントを提供しています。
これからの課題と展望
今回の研究は雄マウスに限定されており、性差や環境要因の影響、他の神経回路との関係は今後の課題です。また、CINsを完全に除去した影響が他の行動にも及ぶかどうかも検証が必要です。
それでも、社会的経験が脳内の特定回路で記録・制御されるという示唆は、行動科学や神経心理学の発展に新たな方向を示す発見といえます。
慎重さと挑戦のバランスをつくる脳
2025年に報告されたこのOISTの研究は、マウスの社会行動を通して、脳の中に「敗北を学ぶ仕組み」が存在することを明らかにしました。
勝つ経験が次の挑戦を促し、負ける経験が次の慎重さを生む――そのバランスを取るスイッチが、背内側線条体の中にあることを示しています。
経験が行動を変え、行動がまた経験をつくる。その循環を脳がどのように調整しているのか。今後、人間の社会行動研究にも新たな視点をもたらすことが期待されます。
経験が行動を変える――人間社会への示唆
マウスの実験で見えた「勝者効果」と「敗者効果」は、単なる動物の行動特性ではありません。沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームは、これが人間の社会的行動の理解にもつながる可能性を示しました。
チームを率いたマオチン・シュー博士は、「人間の社会的順位は状況によって変わる。家庭や職場、学校など、場が異なれば立場も変化する」と述べています。
人間の脳もマウスと同様に、経験をもとに柔軟に行動を調整できる構造をもっていると考えられています。つまり、勝ち負けの経験は単なる結果ではなく、次の行動戦略を左右する“記憶のスイッチ”として働いているのです。
この研究では「敗者効果」が“慎重さ”という安全志向の判断を生む回路に関連している可能性が示されました。人間で言えば、失敗の経験を踏まえて次にどう行動するかを決める力にあたります。慎重になることはネガティブではなく、生存戦略の一部でもあります。研究チームは、こうした意思決定の柔軟性を支える脳回路をさらに詳しく調べていくとしています。
社会的行動の研究が開く未来
マウスの“社会順位”の研究は、人間の社会心理や行動経済学の理解にも通じる部分があります。
たとえば、競争に勝った経験が自己効力感を高め、負けた経験が次の挑戦を慎重にさせる――そうした「経験の学習」は、人間の職場・教育・スポーツなどでも見られます。
OISTの研究は、その行動変化がどのように脳内で制御されているかを初めて実験的に示した点で意義があります。
さらに、この成果はメンタルヘルスの基礎研究にも波及する可能性があります。たとえば、失敗体験を過度に避ける傾向や、挑戦を恐れる反応の背景には、脳の回路レベルの変化が関わっているかもしれません。
今後、この“敗者効果のスイッチ”をめぐる研究は、ストレスや社会的適応の科学的理解を深める手がかりになると期待されています。
勝ち負けの経験をどう活かすか
この研究が示したのは、「勝つこと」よりも「負けたあとの行動」に注目すべきだという視点です。
勝った経験が次の挑戦を促す一方で、負けた経験は慎重さをもたらす――どちらも社会で生きるためには必要な要素です。
もし“負けグセ”が過剰に強まれば、挑戦の意欲が失われるかもしれませんが、適度な慎重さはリスク回避の力になります。
このように、行動のバランスをどう取るかという問題は、個人の成長や組織の意思決定にも深く関わっています。
マウス社会での「敗者効果」が消えるまでの流れ
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雄マウスをペアにしてチューブの両端から入れる
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押し合いの結果、勝者と敗者が決まる
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連日テストを繰り返し、勝者・敗者グループを分類
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別ケージで「勝者同士」「敗者同士」を対戦させる
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社会順位の変動を観察 → 勝者効果・敗者効果を確認
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同じテストを再実施
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結果:敗者効果が消失し、勝者効果は維持された
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経験が行動を変える脳の回路が明らかに
FAQ:研究のポイントを分かりやすく整理
Q1. 「敗者効果」とは何ですか?
A1. 負けた経験がその後の対戦で消極的な行動を引き起こす現象です。マウスでは繰り返し負けた個体が次の対戦で早く退く傾向が見られました。
Q2. 「コリン作動性介在ニューロン(CINs)」とは?
A2. 背内側線条体(DMS)に存在する神経細胞群で、情報処理の“切り替え役”を担うと考えられています。今回の研究では、この細胞を除去すると敗者効果が消えました。
Q3. 勝者効果はどうなりましたか?
A3. 勝者効果は残りました。つまり、「勝ちグセ」は別の脳回路によって維持されている可能性があります。
Q4. 人間にも同じ仕組みがありますか?
A4. 人間の脳はマウスより複雑ですが、構造的な共通点があります。現時点では直接の証明はありませんが、社会的行動の柔軟さを理解するヒントになります。
Q5. 今後どんな研究が期待されますか?
A5. 性差や環境要因の検証、可逆的操作の導入など、より広い条件での再現実験が想定されています。人間の社会的適応の理解にもつながる可能性があります。
OIST研究「敗者効果の脳スイッチ」2025年発表の全体像
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発表機関 | 沖縄科学技術大学院大学(OIST) |
| 発表年 | 2025年 |
| 掲載誌 | iScience(Cell Press) |
| 対象 | 雄マウス |
| 実験方法 | 優位性チューブテストと別ケージ対戦による社会順位評価 |
| 主な脳部位 | 背内側線条体(DMS) |
| 介在神経 | コリン作動性介在ニューロン(CINs) |
| 主な結果 | CINs除去で敗者効果が消失、勝者効果は維持 |
| 意義 | 社会的順位を決める経験学習と意思決定回路の役割を解明 |
| 将来展望 | 社会行動・適応の神経メカニズム理解へ応用可能性 |
慎重さは「敗北」から生まれる――行動を導く脳の仕組み
今回のOISTの成果は、社会的行動の背景にある“脳の意思決定システム”を可視化したという点で画期的です。
私たちは「勝つ」ことを成功の象徴と見なしがちですが、行動を変えるのはむしろ「負けた経験」かもしれません。敗者効果が示すように、失敗は慎重さを学ぶ回路を活性化し、次の判断をより安全に導きます。
それは人間社会でも同じです。誰もが成功と失敗を繰り返しながら、自分なりの行動バランスを作り出しています。今回の研究は、その背後にある生物学的メカニズムを示し、「慎重さ」や「挑戦」という心理的な動きが脳の構造に根ざしていることを教えてくれます。
科学が明らかにしたのは、勝つことも負けることも、どちらも脳にとって“学び”であるという事実です。敗北から立ち上がる力は、感情ではなく神経の仕組みにも支えられている――そう考えると、私たちの社会的行動が少し優しく見えてきます。