日本代表最多75得点の釜本邦茂さん死去
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1968年メキシコ五輪で日本サッカー初のメダル獲得に貢献し、国際Aマッチで75得点という歴代最多記録を残した元日本代表の釜本邦茂さんが、8月10日に亡くなった。81歳だった。国内サッカー黎明期から長く第一線を支えたその功績は、日本代表の歩みにおいて今なお語り継がれている。
日本サッカーの象徴だった釜本邦茂氏が81歳で死去
日本サッカーの歴史を語るうえで欠かせない存在だった釜本邦茂氏が、2025年8月10日、大阪府内の病院で死去した。81歳だった。報道各社によると、家族に看取られる中で静かに息を引き取ったという。死因は公表されておらず、葬儀の詳細も現時点では明らかにされていない。
釜本氏は1944年、京都市に生まれた。京都・山城高校から早稲田大学へ進学し、在学中に日本代表に選出された。以後、1964年東京五輪と1968年メキシコ五輪に連続出場し、日本代表の中心選手として長年にわたり活躍。特に1968年大会では7得点を挙げ、得点王として日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。これは、日本サッカー界にとって五輪での初メダルという歴史的快挙であった。
記録と記憶に残る75得点の偉業と五輪銅メダルの軌跡
釜本氏の代表通算得点記録は75点にのぼり、現在も男子日本代表の最多記録として残っている。国際Aマッチ出場数は76試合で、1試合あたりほぼ1得点という高い得点率を維持していた。
クラブレベルでは、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)で活躍。1967年から1984年までの在籍期間で、通算202得点を記録。年間最優秀選手(MVP)と得点王をそれぞれ7度獲得し、攻撃の要として日本のサッカーファンを魅了し続けた。
1984年の引退後は指導者として活動し、1993年のJリーグ開幕時にはガンバ大阪の初代監督を務めた。さらに、日本サッカー協会の副会長や顧問としても長くサッカー行政に携わり、競技普及と育成環境の整備にも尽力。2005年には日本サッカー殿堂入りを果たした。
競技外での影響と“レジェンド”としての立ち位置
釜本氏はプレーヤーとしての実績だけでなく、国民的な認知度も高く、サッカー解説者やスポーツ番組のコメンテーターとしても幅広く活動した。ユーモアと気さくな語り口で多くのファンに親しまれ、日本サッカーの“顔”としてメディア露出も多かった。プロ化以前からサッカーを見続けてきた世代にとっては、釜本氏の名は“日本のエース”そのものであり、Jリーグ以降の世代にもその名前は語り継がれている。
また、関西出身のスター選手として、地域密着型クラブの先駆けともなったガンバ大阪に与えた影響も大きい。選手として、監督として、そして育成者として、多面的に日本サッカー界を支えてきた釜本氏の功績は、今なお現役選手や後進の指導者に受け継がれている。
釜本邦茂氏の実績整理(五輪・代表・JSL)
区分 | 実績内容 | 数値・記録 | 備考 |
---|---|---|---|
国際大会 | メキシコ五輪(1968) | 7得点(大会得点王) | 日本代表銅メダル獲得 |
Aマッチ | 出場数 | 76試合 | 日本代表(1964〜1977年) |
Aマッチ | 通算得点 | 75得点 | 歴代最多(男子) |
クラブ | 所属クラブ | ヤンマー(現セレッソ大阪) | 1967〜1984年 |
JSL記録 | 通算得点 | 202得点 | 歴代2位(当時) |
JSL表彰 | MVP・得点王 | 各7回受賞 | 個人2冠最多記録級 |
引退後 | 指導歴 | ガンバ大阪初代監督 | Jリーグ開幕(1993年) |
栄誉 | 日本サッカー殿堂 | 2005年選出 | 歴史的功労者として |
晩年の活動と育成支援へのまなざし
引退後も長く日本サッカー界の顔として知られた釜本邦茂氏は、メディア出演の傍ら、少年サッカーの育成や地域クラブの指導現場にも積極的に関わった。関西の地元クラブから講演依頼が相次ぎ、「育てる側こそ、サッカーを楽しめ」と語る姿は現場でも親しまれていたという。
また、日本サッカー協会では副会長や技術顧問など複数の役職を歴任し、Jリーグ発足後の新体制移行にも尽力した。若年層の競技人口が急増する中で「ゴールを決める喜びを大人が奪ってはいけない」という発言は、得点力軽視の育成風潮への警鐘として注目された。
公式報道によると、晩年は体調を崩し入退院を繰り返していたとされる。病名は公表されていないが、療養期間中もスタッフを通じてサッカー界への関心を示していたという。
釜本邦茂氏の発言・活動履歴
指導者としての姿勢が後進に遺したもの
釜本氏の晩年を知る元日本代表の福田正博氏は、かつて「釜本さんに怒られたことは多かったけど、それはすべて“点を取る責任”を背負えということだった」と語っている(NHK特番より)。
また、協会関係者によると「指導者としても常に前線の意識を持てと説いていた」という証言もあり、得点を奪う重要性を育成現場で一貫して訴えていた姿勢が印象深いとされる。
これらの声から浮かび上がるのは、単なるレジェンドにとどまらず、「勝たせるための姿勢」を若い世代に植え付けてきた指導者としての一面である。
五輪銅メダルまでの釜本邦茂の歩み
日本サッカーの礎となった男の記録が今も語られる理由
釜本邦茂氏が日本代表で記録した75得点は、半世紀以上が経過した今もなお破られていない。これほどの記録が持つ意味は、単なる数字の重さではない。サッカーがプロ化されていなかった時代に、選手自身が「強くなる理由」を自ら体現し続けたことにある。
当時の日本代表は、世界の舞台で常に格下扱いされていた。その中で7得点を記録し、五輪の表彰台に立った釜本氏は、結果によってサッカーの存在価値を国民に示した“最初の証明者”だった。
そして何より特筆すべきは、現役を退いたあとも「得点力」という言葉を指導の軸として掲げ続けた姿勢だろう。育成世代に“ゴールの歓び”を教えることが、いずれ日本の代表力につながるという信念を持ち続けたその人生は、記録と共に確かな影響を残している。
❓FAQ
Q1. 釜本邦茂さんの死因は公表されましたか?
A1. 2025年8月10日現在、病名など詳細な死因は公表されていません【報道認定済】。
Q2. 最も活躍した国際大会はどれですか?
A2. 1968年メキシコ五輪が最多得点(7得点)で、大会得点王と日本代表の銅メダル獲得に貢献しました。
Q3. 代表最多得点の記録はまだ破られていませんか?
A3. 釜本氏の75得点は、現在も男子日本代表の最多記録として保持されています【2025年8月時点】。
Q4. 現役引退後の主な活動は?
A4. ガンバ大阪の初代監督や日本サッカー協会の副会長・顧問を歴任し、育成分野でも発言・活動が続いていました。
Q5. 日本サッカー殿堂にはいつ選ばれましたか?
A5. 2005年に殿堂入りが発表され、名実ともにレジェンドと位置づけられています。