「眠れる王子」サウジ王子が死去
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サウジアラビアで「眠れる王子」として知られた王族アル・ワリード・ビン・ハリド・アル・サウード王子が、20年にわたる昏睡状態の末に亡くなった。事故当時15歳の王子は、ロンドン留学中に交通事故に遭い、脳出血で意識を失った。父親は延命措置の継続を選び続け、SNSを通じた祈りの姿が世界中で注目を集めていた。
ロンドンでの事故と昏睡状態の始まり
2005年、サウジアラビア王族の一員であるアル・ワリード・ビン・ハリド・アル・サウード王子は、イギリスのロンドンにある陸軍士官学校へ留学中に交通事故に巻き込まれた。事故により脳出血と内出血を引き起こし、意識を失ったまま昏睡状態に陥った。当時15歳だった王子は事故直後に現地で救急搬送されたが、回復の兆しが見られないまま長期の療養生活に入った。
その後、王子はサウジアラビアの首都リヤドにある医療機関へ移され、人工呼吸器と経管栄養を用いた生命維持措置が取られた。長期間にわたり意識のないままの状態が続いたが、家族は治療の中断を拒み続け、20年間にわたって医療措置を継続した。
父親の選択と祈りの記録
事故から10年が経過した2015年、医師団が延命措置の見直しを父親に提案したと報じられたが、王子の父・ハリド・ビン・タラール王子は、「生命と死は神が決めるものだ」として治療継続の姿勢を貫いた。以後も家族は王子の回復を信じ、祝祭やラマダンの期間中に病床を訪れ、祈りを捧げる様子が度々撮影された。
SNSに投稿されたこれらの映像には、わずかに手や指が動く姿が映っており、「希望の証」として国内外で大きな反響を呼んだ。こうした家族の姿勢とともに、王子は「眠れる王子」として多くの人々の記憶に残る存在となった。
SNSで広がった「眠れる王子」の姿
事故から年月が経つにつれて、王子の病床での様子が映された動画がSNSを通じて拡散された。中でも注目を集めたのは、父親が王子に語りかけると、かすかに手が動くような場面が収められたものである。一部の映像では、まぶたや指が反応する様子も見られ、「意思があるのでは」との声が寄せられた。
これらの映像は、王族による祈りの文化や、宗教的信念に基づいた医療判断の象徴として、アラブ諸国のみならず欧米の医療・倫理分野でも議論の対象となった。
事故から死去までの主な経過
年月 | 出来事 |
---|---|
2005年 | ロンドンで交通事故に遭い、脳出血で昏睡状態に |
2006年〜 | サウジ国内の医療施設で治療継続。人工呼吸器と栄養チューブで生命維持 |
2015年 | 医師団が延命措置の見直しを提案。父親は治療継続を表明 |
2020年頃〜 | SNSでの映像拡散により「眠れる王子」として広く知られるようになる |
2025年7月19日 | リヤド市内の病院で死去。翌20日に葬儀予定と発表される |
延命と祈りが問いかけたもの
20年にわたり昏睡状態にあったアル・ワリード王子の存在は、「治療」と「生きること」の境界を社会に問い続けていた。医師の診断では回復の見込みが低いとされながらも、父親は生命の尊厳を守る姿勢を崩さなかった。
その判断は医学的な合理性を超え、宗教的信念と家族の絆に支えられていた。SNSで公開された病床の映像は、わずかな動きを希望として受け止める人々の心を動かし、多くの共感と議論を呼んだ。
王子の死は、単なる一個人の出来事にとどまらない。延命医療の是非、意識障害のある患者に対する社会のまなざし、そして何をもって「生きている」とするのかという根源的な問いを、世界に投げかける出来事となった。
◆FAQ(よくある質問と回答)
Q1. なぜ20年間も延命措置が続けられたのですか?
A1. 医師からは回復の見込みが低いとされたものの、父親が「生命と死は神が決めるもの」として治療継続を選びました。宗教的信念と家族の祈りが背景にありました。
Q2. 映像で見られた手の動きは意識的な反応だったのですか?
A2. 医学的には確定していませんが、家族は「反応」と捉えて希望を持ち続けていました。
Q3. 事故はどこで起きたのですか?
A3. 2005年、ロンドンの陸軍士官学校に留学中だった際、交通事故に遭いました。
Q4. 死亡の発表はどのように行われましたか?
A4. 王子の父親がSNSで報告し、サウジの国営メディアも19日に訃報として伝えました。
Q5. 葬儀はどこで行われたのですか?
A5. リヤド市内のイマーム・トゥルキー・ビン・アブドッラー・モスクで、7月20日に執り行われました。